山の人生を読む【ネタバレ注意?】


KGDさんにもらった(!)柳田国男さんの「山の人生」ようやく読み終わりましたー。最近の読書は何読んでもそうですが、寝る前に1ページとか、一段落くらいしか保たずにコロっと眠ってしまうので全然進みません。あ、全然といえば、

…伝統的の空想を、全然脱却することを得なかったのかと…(p106)

あ、「全然」て使うんだぁ、とか身近に思ったり。しかし考えてみれば昔からある言葉だった。これは、本当にアッタリマエのことですけど、昔生きてた人と同じ言葉で繋がれるってのは、すごくいい感じじゃないですか?とたった今思いました。さて。ん、柳田さんが意図する「全然」は下の「注意を要する用法」に入るのかしら。

この本は大正15年初版だそうで。

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いったいこの本には何が書かれているのか


細かいことは読んだそばから忘れてしまったので、大まかな内容を書いてみようと思います。

えーまず。
山で生きている(と思われる)人、その人たちが関わっている(と思われる)事件等々を各地に残る伝承や書物の内容をもとに紹介し、柳田さんの解釈を加えています。

「山で生きている人とは」
山人、山男、山鬼、大人、山丈、山姥、
とかですね。各地で呼び名が違うだけで、根源は同じ場合もある?

「関わったと思われる事件とは」
神隠しが主だったと思います(おぼろげ)。子供が突然いなくなる、女性が突然いなくなる、何十年後に戻った、とかとか。

狐に騙されて連れて行かれる、天狗にさらわれる、といわれる場合もある。

「柳田さんの解釈」
とても論理的で、伝承や文章に対して、これこれこうだからこの話は途中で筆者の想像が加えられてるな、とか、しかしここまでこのように伝えられているからには何かしらの理由があるのだろう、とか、そんな感じなのです。

と、私の解釈が合っているのか不安になってきたな。

印象的な文章

途中で、んん!と思ったところ。引用させてください(p47)。

「うそ」と「まぼろし」との境は、決して世人の想像するごとく、はっきりしたものではない。自分が考えても、なおあやふやな話でも、何度となくこれを人に語り、かつ聴く者がつねに少しもこれを疑わなかったら、ついには実験と同じだけの、強い印象になって、後にはかえって話し手自身を動かすまでの力を生ずるものだったらしい。

この先も引用したいんですが長くなるので。んん!と思いました。

山人すなわち


p183から「山人考」という講演でのお話がはじまります。
ここで、「山人すなわち日本の先住民…」とはっきりおっしゃってますね。そうかー、そうなのかな。ありえなくは無いな、と思う。たまたま流れ着いたアフリカ系の人ってことはないかな、と読みながら思いましたけどね。たまたま流れ着かないか?で、山に逃げたと。アフリカ系じゃなくても、外国人説どうすかね。昔の日本人にしてみたらすっごく体大きいし、顔が赤いって色々話があるみたいですけど、とにかく昔話の「色」に関しては信用ならんからな。と。私の素人の憶測でこの回を締めくくるのは心苦しいな。

先生と師匠

というわけで関係無い話行きまっす。
柳田国男と来たら先生とつづきそうじゃないですか。先生という言葉はいいですよね。好きです。私がたまに疑問に思うのは、落語家の人に付ける「師匠」という言葉。〇〇師匠、とか弟子でもなんでもない人が言ったりしますよね。弟子にとっての師匠じゃないすか。まったく全然俺にとっての師匠じゃねぇし!

なんてね。思ってないっす。気になっただけで。サラ〜場。

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