早世した人の名言を疑ってみる
最近ニルバーナのTシャツを着ている若者をよく見かける。昨日も見たし、今日も見た。
どうゆうことですかあれは。
学生のとき、ニルバーナは「輪廻転生」という意味だ、と教えてもらったので、ほんとに転生してフィーバーしている、とかいう小話を考えたが、そもそもの意味が不正解だった。ちょっと調べてみたらニルバーナは涅槃(ねはん)という意味らしい。
当時この手の情報は、詳しい知人のもっともらしい話か音楽雑誌(Dollとか)の立ち読みくらいだったからな。まーこんなこともあるだろうよ。
さて。それは実はどうでもよくて
最近私が考えたことを書きたいのです。
若くして亡くなった歴史上の人物や、ロックスターでもいいや。そんな人たちが残した名言がありますよね。彼らが亡くなった年齢を越えてみて思うのです。
年齢を重ね、40、50になっても同じことが言えたのか知ら、と。
「いやあれは間違いであった」とか「あれは若気の至りであった」とか
「訂正希望」とか「ぜひ削除してください」
とかの可能性を想像してみる。
心境の変化というやつがありますからな。
私は25才くらいの時に「なんでも分かってる」風の顔をしていたが、今にして思えばまったく恥ずかしい話で、「何も分かっていなかった」ことを日々実感しているのが現在。
偉人たちと比較をするなボケと怒られるかもしれないが。
中学生の時におみやげで買った坂本龍馬サンの書がプリントされた扇子を今でも持っているんですが、それ見る度に思うんです。
「いや、ちょっ、まっ、その書はやめてホント!」
みたいになっていないかと。
つまり、私が言いたいのは、輝いた場所で華々しく放った言葉はキラキラして美しいかもしれないが、くたびれたサラリーマンのお父さんが闇夜に放つ言葉も同じくらい美しい可能性があるかもしれん。と、いうこと。
かもしれません。