「共感」について考えた
最近ツイッターである人のツイートにやたらと引用リツイートがつくことに気が付き、なぜなのかと考えた。考えてみれば答えは当たり前のことで、それが「人の共感を誘う言葉だから」だ。「そうそう、そうなんだよ」とか「あ、分かる、それで思い出したけど…」とかね。うむ、なるほどー。
そんなことを考えていると、全ての答えは「共感」なんじゃないのかと思えてきた。これは拡散される要素として間違いないと自分は思っているんだけど、何かにソックリなものを作る、これです。すごい技術が必要なんだけど、これも結局は「共感」なんじゃないか。誰もが見たことがあるものが題材でなければ、多くの人の共感を得られない。と思う。
さらに考え事を進める。
それじゃあ、多くの人の共感を得るために、共感しそうなものを考えて、作る。描く。撮る。そうすればいいわけです。売れたりさ、評価されたりするわけさ。
「これ便利!」とかね、「これなつかしい!」これもそうだな。「かっこいい」だって「かわいい」だってそうだ。なんだよ、全部「共感」なんじゃないか。
まぁそんなこと会社で商売していれば当たり前のことなんだろうけど、いかんせん、自分は商売に疎いのでようやくこんなことを考え始める。
思考がバラついてますが、そうだな、こんなことも考えた。
意図せずに共感を得られるモノは作れるか?
作れる。共感について考えなくても、当人が全く意識せずエゴの塊のようなモノを作っても、共感を得ることができるんだな。ただし作者が多くの人と似た感覚を持っている場合。うむ。その試験に私は不合格だなと。いささかショックではあったけども、不合格を受け入れよう。なぜなら「人と違うことをしたい」これを軸に人生を送ってきたのだから…だよな、だよねー
そうそう、ニッチな世界で成功するという手もある。これは、多くの人ではないけれども、ある一定数の人々の共感を得る作品である、ということなんだな。そのある一定数の人々がいる場所に向かって的確にアピールすることが必要。現在は趣味が多様でそのような成功例がたくさんありますよね。
そんなこんな共感について考え事をしているさなか、
オリンピックの開会式がはじまった。開催前反対していた人々も多くがテレビを見て、あーだこうだと言い、トレンドになる。メディアは開会式の裏側や選手たちのドラマ仕立ての記事を書き、感動を促す。
これは菅さんの言ったとおり、はじまってしまえば意識が変わるという、そのままの状態じゃないか。正直僕は開催反対ではあったけど、途中どうでもよくなったパターンの人で偉そうなことは言えないが、あまりの気持ち悪さにしばらくタイムラインを見るのを止めようと決意した。
この日本人的な(日本人だけがそうなのか知らないが)忘れっぽさ、まぁいいじゃないせっかくだから楽しもう、とか、なんなんだろう…
いや待て、ここに共感しないことが僕の問題なんじゃないか?
とな。ホラーみたいな話です。夏だなー。左様なら